2022年9月1日発売
価格 1,200円
ISBN : 978-4-99129101-2-9 C9470

2022年4月1日発売
価格 1,200円
ISBN : 978-4-99129101-1-2

2021年10月末日発売
価格 1,200円
ISBN : 978-4-99129101-0-5

〈文〉正岡 明/樹木医。正岡子規研究所長、 (財)虚子記念文学館理事

【奈良編】老木は残った

古事記の中の有名な歌であるが、三輪山の麓から日本最古の道・「山の辺の道」が北へ伸び、背後に「青垣」すなわち青い垣根のように小高い峰が連なっている。その北端に控える春日山原始林は神の杜・春日大社の鎮守の森で、日本三大原始林の一つである。平安時代に伐採禁止令が敷かれて以来、千年以上手つかずの森として守られてきた。神域なので、自然遺産ではなくこの森が文化遺産として、世界遺産に登録されたというのも珍しい。標高五〇〇メートル弱の花山の頂上近くに、この山の主と言われる巨大な「大杉」が鎮座している。
二〇〇三年の六月にこの杉のてっぺんに雷が落ちた。夜も更けて消防車のサイレンの音が山にこだましているので外へ出てみると、山の上にぼおっと鈍い炎が見え、巨大なろうそくが立っているようだった。一晩中燃えていたのでなかろうか。
翌朝、樹木医として興味があり、県の公園事務所に様子を聞きに行ったら、運よく今出かけるところだからと、ジープに乗せられ山道を走り現地に向かった。下車し、急斜面の道なき道を尾根伝いに登っていくと、樹林の中に急に巨大な杉が立ち現れた。幹の周囲は十メートルもあろうか。人が五人くらいで手を繋いで抱えられる太さだ。根元の洞からまだ煙が吹き出していた。ということは上まで内部が空洞で煙突状になっており、よく燃えるはずだ。木は内部が腐って欠落しても、外側の皮の部分だけで生きられる証拠である。
上を見上げるとほとんどの枝は枯れて白骨化しており、地上十メートルのところにある一本の枝だけ緑の葉をつけていた。まだかろうじて生きているのだ。それにしても水も得にくいこのような尾根筋の急斜面で、千年近くもよく生き続けられたものだ。
しばらくして県は枯れ枝が落下して危険なので伐採する方針にした、との情報が入る。まだ生きているのに、その上このエリアで最大最長老の神杉が切り倒されてなるものかと、私は県内樹木医の有志に呼びかけ、県に要望書を提出した。春日の森は立ち入り禁止になっているし、万一枯れ死してもその場で朽ち果てることが生態系に敵っているとの見解が認められ、保存が決定した。
私は最初に駆けつけた時に、落下した小枝を持ち帰り、数本挿木して育てた鉢植えを先日、知り合った県の係の人に寄贈した。万一枯れた場合はその跡に後継樹として植えてもらえればよい。何しろ千年の遺伝子を持っているのだから。
時々その大杉を見に行くことがあり、まだ一本の枝に青々と葉をつけているのを見上げ、「長生きせえよ」と太い幹を撫でて、山を下りるのである。

〈文〉正岡 明/樹木医。正岡子規研究所長、 (財)虚子記念文学館理事

【シベリア編】カラマツの原野

 横浜港からソビエトの客船、ハバロフスク号に乗り込んでナホトカ港に向かったのは私が三〇代後半の一九八三年九月だった。当時、若者によく読まれた『青年は荒野をめざす』という五木寛之の小説に触発された面もあったが、七年間勤めた造園会社のハードな仕事に心が疲弊し、一度充電したかったのと、ヨーロッパの文化に接し街並みや庭園、美術に触れ、何よりも異国の人々の生活を垣間見たかった。
 いわゆるバックパッカーという出で立ちで、全く予約なしの安宿を泊まり歩く、自由な放浪のひとり旅であった。一一一日間十数ヶ国巡ったがその間、三つの戒律を己に課した。一、日本食を食べない。二、タクシーに乗らない。三、飛行機に乗らない。三つ目はパリから帰国したときだけ守れなかったが、全工程を船と鉄道と徒歩で巡った。我ながら若くて体力があったと思う。
 ナホトカから乗ったシベリア鉄道は鉄の塊のような重量感のある列車で、四人用の寝台のコンパートメントに日本人の男女の学生と中年の船員のドイツ人女性と半月近く同室になり、意気投合し非常に親しくなり、つき合いは現在も続いている。
 さて、列車はモスクワへ向かって何日もシベリアの原野を走り続けるのだが、どれだけ進もうとも車窓からの景色は変わらない。それはタイガというシベリア独特の森林で、その大半がカラマツである。ちょうど黄葉期で一面、陽光を浴びた黄金の海が延々と続き、そのなかにシラカバの白い幹がリズムよく混在し、息を飲むような美しい景色は何日見続けていても飽きることはなかった。
 カラマツは「落葉松」ともいい、針葉樹には珍しく落葉する。その落葉が敷きつめられた大地も黄金の絨毯という感じで、日本では多くの詩人の心を捉えている。
 〝からまつの林を過ぎてからまつをしみじみと見きからまつはさびしかりけり〟これは北原白秋の詩だが、あまりの美しさゆえに悲しみが潜んでいる。このシベリアのタイガも、やがて極寒の地となり、地中は永久凍土となる。春夏にはそれがとけ出して、その水でカラマツはよく育つらしい。
 モスクワから北欧に入り、南下してドイツ、オーストリア、フランスなどを巡り、芸術の渦巻く街パリには半月も滞在して新旧アートの洗礼を受けた。ルーブルも圧巻だが、現代アートのポンピドゥー・センターは建物の外観もフランスのエスプリのきいた巨大芸術品のようで魅せられた。イタリア、スペインと南下するほどにラテン特有の猥雑な活気に溢れていておもしろい。バルセロナのピカソ美術館では彼の初期の具象のデッサン力には驚嘆。しっかりした基礎の上に抽象画が開花していることに気づかされた。
 西洋は絵画も建築も庭園もキリスト教文化がバックボーンとしてあり、その異文化へのカルチャーショックが旅の醍醐味で感動の連続ではあったが、長く接していると何故かその血塗られた歴史が影を落とす激しさと濃さに疲れてしまった。帰国後は逆に日本画や俳句など、いわゆる「間」の日本文化に惹かれ、西洋での体験が日本を見直す契機となったのは旅の大きな収穫でもあった。

2022年4月1日発売
価格 1,200円
ISBN : 978-4-99129101-1-2

2021年10月末日発売
価格 1,200円
ISBN : 978-4-99129101-0-5